「好き」の価値とか推し方とか

 

 かわいそうな人のためにしか芸術がないから、かわいそうな人がかわいそうぶっている世界が嫌いです。音楽に救われたって言っている子に永遠に勝てない。ただちょっとかっこよくて、いいかんじだなって思いましたよ、ぐらいじゃどうせ喜んでもらえない。ライブハウスで歌手にすがる右手より、私の存在は価値がないんです。価値がないファンなんです。

 

 確かぎりぎり十代だった頃に読んだ最果タヒさんの『十代に共感する奴はみんな嘘つき』の冒頭近くのこの一節が忘れられません(出版年的にこの時点でおおよその年齢がバレる)

主人公の女子高生の語りなのですが、何かを好きだなと思って、時にはファンだったりオタクだったりする自分が、ぼんやり気持ち悪く思っていたことの、極端ながらも的確な言語化で、しかも冒頭からそれ書いちゃうんだ!と印象に残っていたんだと思います。

 

今から書くのはオタク達の推しへの「好き」の貴賤であったり、推し方のことであったりそういう話で、まさかタヒさんもそんな話をするために著作を引用されるとは思っていなかったと思うのですが(なぜならもちろん作品全体としてそういう話ではない)(ごめんなさい)(好きです)とりあえずここを起点に話を進めます。

 

前提として「好き」は貴賤で判断するような価値ではないと思うけど。

ただ「好き」って簡単に言えてしまう言葉で大小方向性の差はある、その上で、見かけだけじゃ判断できない「好き」を担保する(ように見える)ものは何か。金とか時間とか現場数とか知識とか、色々言われるしオタクはすぐにそれで揉めたり病んだりするけども、私はそんなことより重要視されるのは「物語」なんじゃないかなと思う。それこそ、救われた、みたいな。そして、物語には貴賤が見出されてしまうと思う。それが正しいのかは置いておいて。

 

いつか私のいた界隈が、〇〇に仕事だったり学校だったり家族だったり、人生の辛かった時期を救われた、って人が、その裏返しで〇〇を失ったら死んじゃいそうな、そんな人がすごく多かった。どこにでもいると思うし、そもそも娯楽や好きなものってそういうものだけど、本当に、ちょっと印象に残るくらいにはマジでそういう感じな人が多かった(みんなまだ生きてるかな???どうか元気でいてほしいです)

 

別に、それが悪いと言いたいわけではなくて、でも少し気持ち悪かった。気持ち悪かったというか、羨ましかったのかもしれないです。両方かな。私はこんなことがあってこんなに辛くて、でもこんなに救われた、失ってしまったら死んじゃうくらい辛い、と、つらつらと論拠らしきものと共に語れることが羨ましくて、それが尊ばれることが、軽率なお涙頂戴や感動ポルノが生まれる要因と根っこが似てる気がして、気持ち悪かった。

 

好きなものは大なり小なり心にプラスになるから、私だって救われたには救われたし、好きでいる間に私の人生は進んでて、その時傍らに好きの対象がいたのならそれだけでちょっとした物語だ。そして、私だって新生活慣れなくてしんどい時に出会えて救われたんだ、って言っちゃう。そのあとのストーリーも語っちゃう。だから自分に全くそういう部分がないとはもちろん言い切れなくて、きっと半分は同族嫌悪だけど。

 

さっき少し挙げた、金や時間や現場数や知識って、ある程度は努力でどうにかなるものだと思います。人それぞれ環境は違うから、例えばバリキャリ社会人にお小遣いの学生がお金で勝てるわけないけど、それでも中学生が「お小遣い頑張って貯めてCD1枚買いました!」って言ったら、その時バリキャリが100枚買ってても中学生の好きはかけたお金で担保されてると思う。だけど「救われた」って物語は、得ようとして得られるものじゃない。

 

10だった幸せが100になったり、100だったものが200になったり、色々あると思うけど、きっと0が1以上になったりマイナスがプラスになることの方が尊ばれて、そんなことないって分かってるけど、元が0だったりマイナスだったりする子達に「永遠に勝てない」んだろうなって、しょうがないけどそれがしんどい。オタクの間で勝てない感を覚えるくらいならまだいいけど、例えば本人がオタクから送られてきた救われエピを読み上げて感謝した日なんか地獄ですよ。いや勿論素敵なことだなと思うんだけど、同時に私の好きよりあの子の好きの方が喜ばれるのかなってどこかで拗ねてしまう。お察しの通り心が狭くてめんどくさいオタクです。

 

だけど拗ねてるだけじゃどうしようもない。100%オタクライフをエンジョイするために0やマイナスの人に「負けない」物語のために何を持ち出すのか、そこで力を発揮できるのが金と時間と現場数と知識、その類のものなんじゃないかなと思います。つい主語を大きくしてしまいますがあくまで私の話で、お金と時間をかけて応援したり現場に足を運ぶこと、それ自体が物語の創造になりうると、私は思います。

 

かけたお金と時間は好きの対象を楽しんだ結果いつの間にか蓄積されるものだけど、同時にそれ自体が楽しむための手段にもなる。金と時間を注いで対象の歩みと自分の人生を寄り添わせた、その充実感がそのまま私にとっての物語として機能する。それすらも純粋に楽しんだことの副産物ではあるけど、純粋に楽しむ時にこの効果を若干計算に入れている。

何かを好きでファンになる、という段階を越えて、オタクすること自体が楽しくて、暇な時つい「推しを探す」って感覚を持つオタクは、少なからずこのケがあるんじゃないかなって、思うんだけど、違うかな。

 

そういうわけなので、私はお金と時間注ぎ込んでしまうオタクです(言い切るのも恐れ多いけど、ネットはともかくリアルの友達でそんな人滅多にいないからどちらかというとその文脈の人間のはず)

そしてお金と時間を注ぎ込んでしまうオタクとしては、時折ツイッターでバズってる推し活で無理しちゃダメだよ自分のペースで好きでいることが大事だよみんな好きでいていいんだよみたいな啓発ツイートを見る度、あなたも本当は無理してるでしょ?楽になりなよって見当違いの優しさを向けられてる気がして、黙っとれ!!って思ってしまいます。

 

お金かけて同担にマウント取りたいとか、止められなくなってるとか、そういうのではない。と思う。自分の限度はわかった上でかけられるお金をかけてできることをして、それは時々バランスを間違えて無理になってしまうこともあるし、周りの友人からなんて間違えてない時も常に無理してると思われてて「すごいね、私にはできない」みたいなことも言われるけど、そのほんの少しの無理も含めて、その上で得る充実感(根っこが「勝てない」だからここには多少のマウンティングを含むけど)含めて、私が選んだ「好き」に対する楽しみ方です。

 

上記の啓発に対抗する価値観は、金かけない在宅が推し名乗るな、みたいなやつだと思うんだけど、その感情はあんまりないです(あんまり、というのは、行けないけど応援してます!リプの神経を疑う程度の気持ちはある)

 

お金と時間を中々かけられない人や現場に行けない人が好きでいていいのかなって悩んで、バズツイの啓発を受け私は私なりに好きでいていいんだ!って気づくみたいな一連の流れ度々あると思うんですけど(偏見)、それがあんまりしっくりこなくて、でもそれはそんなわけねーだろ金かけろ、じゃなくて、むしろ当たり前じゃん何を今更って思ってしまうからだと思います。

 

「好き」と思う、言う権利は誰にでもあります。大小の違いはあれどそこに貴賤も優劣もなく、大きいものも小さいものも、出力の形が人によって違っても、好きという気持ちそのものはどれも大切でかけがえがありません。だから、みんな好きでいていいのなんて今更気づくまでもないこと。

 

「好きでいちゃいけない」って思ってしまうんだとしたら、それは金と時間をかけてるオタクに負けたくないって気持ちが少なからずあるからじゃないのかなって、勝手に推測します。もしそうなのだとしたら、もし負けたくない勝たなきゃと思ってしまって、それで好きでいることに引け目があるなら、努力の余地があるのにそう思うのだとしたら、それはおこがましいというか、それならいわゆる「在宅は黙れ」みたいな感情にも、なる。

 

あなたも私も好きなものがあって、あなたにはあなたの、私には私の好きの表明の仕方、楽しみ方があってみんな色々だねって、それだけの話。それは気持ちの強さの問題でも好きでいる権利があるとかないとかの問題でもなく、楽しみ方は人それぞれという事実があって、それをへーそうなんだって、受け止めればいいだけの話。私はそれなりに金と時間をかける遊び方を選んだけど、そうじゃない人を排斥するつもりも責めるつもりもなくていろんなものをいろんな形で推すいろんなオタクと仲良くしたいけど、ただ金と時間をかけるから得られる充実感もあって、努力もせずにその土俵に上がれるって思うのなら、それは違うよね、って。

 

(※この充実感のための「金と時間をかける」はバリキャリと中学生の例みたいな相対的なものです。それとは質の違う得るものが絶対的な部分にもあって、それは環境にも左右されるから揉めるんだろうけど、それはもう商売だし資本主義だししゃーないとしか言えない。資本主義だから努力で多少はひっくり返せるかもしれないし頑張れ。私は頑張る。)

 

お金と動員が大事なんだからそこに寄与できないファンはファンじゃないしお金払えるほどえらい、みたいな論理もある。わかる。わかるし正しいけど、それはお金払えないor払わない選択をする人の「好き」を否定するための理屈じゃないし、それを振りかざす過激派のせいで萎縮するならその必要はないし、お金払える人はいいファンというよりはいい客です。どんな商売にでもいる上客。上客であることはいいファンであることに繋がるけど、上客じゃないと「好き」って言っちゃいけないはずがない。

 

色々な客がいて、その差にどう対処していくかは、もう運営だったり本人だったりの勝手だ。常連客やいつもたくさん買ってくれる客を贔屓して大事にする店もあれば、来た人全員を同じように大事にする店も、新規の客に手厚い店もあって、その違いによっては「そんなにありがたくないファン」もいるかもしれないし、うん、それは気の毒だしどうしようもないな……それでも、ありがたくなくても「好き」が悪いなんて絶対ないから落とし所を見つけてほしいし、まして本人がみんなありがとうって言ってるなら誰かの好きの在り方をオタク同士で否定したり、自分で否定したりする必要はない。それこそお金かけてなくても壮大な救われエピソードで勇気を与えるみたいなこともあるだろうし(羨ましい!)オタクのありがたさって簡単にははかれない。

 

だから私は私のために、私の努力と金と時間で0やマイナススタートの人に負けない私の納得のいく楽しい物語を作ってこれからも楽しくオタクするから、自分の意思で遊んでるから心配しないでほしいし好きな遊び方で遊んでるだけだから違う遊び方が好きだからって萎縮しないでほしいな。と。思います。

 

まあ色々あって担降り(?)して今推しいないんですけど!!!!!前述の通りオタクすることが楽しいという文脈の上で生きてるのでオススメがあったら教えてください。以上になります。